最後の瞽女2005.4.25に105歳の生涯を終えた『小林ハル』ホームへ⇔「日々是好日」へ最後の瞽女『小林ハル』 そこには布団があったんだ。 真新しい手触りの、私だけの布団。 石鹸の匂いがする敷布も枕も、そして寝巻きも用意されていて、私は本当にほっとした。 雨が降る日も、風が吹く日も、このあたたかい布団で眠れる。 その夜、私はその真新しい布団に包まれて、朝までぐっすりと眠れた。 (七十三歳で引退して初めて老人ホーム施設に入ったとき) 小林ハルは2005年4月25日に百五歳の生涯を終えた。 三味線を片手に村々を巡り、民謡やはやり唄、義太夫などを聞かせた旅芸人、「最後の瞽女(ごぜ)」と呼ばれていた。 五歳のときハルは弟子入りした。 「最初の稽古が始まるまでに、何でも一人で出来るようにしておくように」と、親方はハルの母に申し渡していた。 瞽女として旅に出れば、子供だからといって親方に面倒はかけられない。 親方の荷物を担ぎ、宿願いもして、芸の修業も怠ってはいけない。 親方の手間を煩わせないのが弟子としての最初の役割であり、そのためには先ず自分の事が出来なければならない。 最初の課題は「一人で起床すること」である。 「旅の間は朝寝坊は許されない。六時きっかりに起きて一人で支度をしろ」 母の厳しい躾は翌日から始まった。 「それが出来なければ朝ごはんは抜きだ」と。 お辞儀の仕方から、お下げ髪の結い方、着物のたたみ方、ふろしきを使った荷の造り方。 旅の途中で雨に見舞われたら三味線が濡れないように雨具の中に入れて弾くことまでも母は一つ一つ教えてくれた。 お下げ髪を作るなど、ハルがやるとまるで七面鳥のようになってしまう。 目のみえない五歳の子供に教えるのだから、手取り足取りの大変な作業だ。 一連の日常の作法を教わると、次は針仕事を習った。 旅の間に着物が擦り切れたり、足袋に穴があいたりしたら、自分で繕わなければならない。 目の見えないハルにとっては、針の穴に糸を通すことは大変な作業であった。 やっと通したつもりでも、糸は無常にもハルの手元をするりと抜け落ちてしまう。 「カカさ、この針、穴はないぞ」と泣き言をいうと、母は、 「そうなら、お前は死んでしまうぞ」 繕いが出来なければ、着るもの履くものが擦り減って無くなってしまうのだ。 針仕事にくらべると、編み物は随分面白かった。 母が教えてくれた「二つ編み」という方法で、脚絆や巾着、小銭入れなどに挑戦した。 コツをつかむと自分の思いのままに形をつくることが出来るようになった。 目が見えないから毛糸の色は白だって黒だって構うことはない。 火は使えないが、お勝手仕事も少しばかり教わった。 芋や大根の皮むきは「誰にでも出来ることだから覚えなくちゃいけない」と言われ恐る恐る包丁も握った。 煮物と味噌汁くらいは出来るようになった。 どういうわけだか、自分が作った味噌汁はいっそう旨いものだった。 背中の荷物が重くてハルは起き上がれなかった。 なにしろ旅支度の上に米の一斗も担いでいるぬかるみの雪道でサヨに一声かけて用を足している時に、両肩をドンと突れたのだ。 それに昔は今のように下着を穿くことはなかったから、着物がはだけて大事なところが丸見えになってしまった。 そんな惨めな格好でハルはもがいた。 サヨは助けるどころか、ひっくり返ったハルの急所をめがけて持っていた杖で、力いっぱい突いたのだ。 瞽女の使う杖は、長い旅でも磨り減らないように、鍛冶屋で金具をつけてもらう。 そんなもので大事なところをぐさっとやられたのだ。激痛が走った。 ハルはあまりの痛さに叫んで許しを乞うたがサヨは興奮していて止めようとしない。 「お前、わざとオラの悪口を言わせただろう。のろまなお前が悪いくせに。」 サヨは抵抗できないハルを、続けて数回、ぐさっと突いた。 急所を突かれて、ハルはその場でうめいた。傷口から生温かい血がぽとっぽとっとしたたり落ちるのが分かった。 「ハル、悪い人と歩く旅は地獄だ。でもそれは修業と思えよ。」 祖父はいつも教えてくれた。 (ああ、これが、その修業というものなのだ) 苦痛に耐えながらハルはつくづく思った。 わが身に与えられた試練ならば、痛くともなんとか耐えなければならない。 祖父に教わった血止めの方法で、とりあえず血を止めた。 この方法ならばどんなときでも血が止まる。 いっときの興奮がおさまると、地面に落ちた血溜りを目の当たりにして、サヨは青ざめていた。 自分が怪我をさせて大事になると大変だ、とサヨは急いでハルを医者に連れて行った。 泊めてくれる宿の都合で、ハルは一人で泊まることになったときは、両足をそろえ、腰紐でしっかりと縛って、夜通し部屋の明かりを灯していた。 そういう危険が迫る夜は、なんとなく気配でわかるものだ。 その日もザワザワと感じる予感が、ハルにはあった。 (今夜あたり、若い衆がいたずらしに来なければいいが) そして、予感は的中した。 夜中、家の人が寝静まると、ガラガラッと、表戸が開く音が聞こえた。 壊されて入って来られるのが嫌だったのだろう、戸締りがされていた気配はなかった。 ハルは身なりをスキのないように整えて、布団の上に正座をした。 「お前の裸、見せてくれや」 「オレの裸なんて、見るほどのもんでもねえ」 「何だと、お前、見せない気か」 「おお、見せねばどうする」 ハルは気丈に返したが、男の一人は日本刀のようなものを持ってきたらしく、すごんで見せてハルを脅した。 「見せねば、殺すぞ」 そういわれれば仕方がない。 見せようがみせまいが、どうせ役に立たない体だ。 ハルは男たちの方に開き直った。 「見せてもいいが、私の大事なところは、十八のときに怪我させられて、使い物にはならないんだ。それでも無理やりにでもしたかったら、お前さんたちの好きにしろ」 ハルは覚悟を決めて着物を脱いだ。 ――自分の落ち度で負った傷ではなく、人にやられた傷だ。恥ずかしいことはない―― ハルは心の中で自分に言い聞かせた。 結局、男達はそれ以上の音の一つも出さないで出て行った。 ほっとしながらも、あとには反面、切なく悔しい思いが残った。 朝になって枕元を探ると、いくらかの金がおかれていた。 情けなく恥ずかしい出来事だが、親方には報告しなければならない。 ハルは何でもないようにわざと明るくふるまい、すっかり話して、男達が置いていった金を全て親方に渡した。 金は驚くほどたくさんだった。親方は笑いながら、 「大事なところを見せて、お前がもらった金だ。オレがもらう訳にはいかない」 とハルに返した。 そう言われてもハルは、そういう金だからこそ、自分ではもっていたくなかった。 (オラはなぐさみ者になるために瞽女をやっているのではないのだ) だから金はやはり親方に使ってもらうことにして、親方はその金でハルの着物を新調した。 「オラのは鉄砲声だから」 美しさに欠けるという意味で謙遜したが、五歳で弟子入りして九歳から旅回りを始め、信濃川河畔で時には血を吐きながら、声を限りに唄う修業を二十四歳まで続けた厳しい訓練のたまものだった。 「とても野太い声で、障子がビリビリと響いているようでした。」 現役時代の後半の小林ハルさんを世話した身元引受人の二瓶文和さんは、小林さんの歌声を耳にした時の驚きをこう語る。 「年は三つで、ばばさん育て・・・」 で始まる「阿波の徳島」が人気で、毎年聞いている人が「お前の唄は何回聞いても泣けるなあ」と、やはり同じところで泣く。 語り物は一段唄うと客は最後まで聞きたがる。 だからハルは六段もあるものでも客を喜ばせるために一晩で唄った。 一段はおおよそ三十分。 六段ともなると、終わりまで三時間もかかる。 他の瞽女の中には、面倒臭がって途中を端折って唄うものもいたが、ハルは人が「聞きたい」と言えば、たとえ金にならなくても最後まで唄った。 一度でも手抜きをすると、「手抜き瞽女」として噂になる。 ずるがしこい行いは、いつ自分に返ってくるかわからない。 山の湯湯治で、ハルは「よく唄ってくれる気持のよい瞽女」と評判で、毎年寄るたびに大事にされた。 「お前の座敷はいくらだ」 ハルは米沢の旅の終わりに夏の疲れを落としに寄っていた温泉場で宴の席が催されると、あちこちから「瞽女さ、来てくれるか」とお呼びがかかる。 宿の人は聞くが、 「唄いもしないのにそんなことは分からない。“ハナ”は客が聞いてから決めるものだ。」 気に入られれば祝儀はたくさんもらえるし、うまくいかなければ少ししか入らない。 ハルのやり方はいつもそんな風だった。 ハルさんの持ち唄は500曲とも700曲ともいわれている。 現役を離れると歌詞を忘れる瞽女が多い中で、小林ハルさんは七十三歳で廃業したあとも正確に記憶していた。 現在も「瞽女唄」は老人ホーム入所後のハルさんから手ほどきを受けた人たちによって、細々ながらも唄い継がれている。 1978年人間国宝に認定され、その翌年黄綬褒章を受賞し、2000年には内閣総理大臣や県知事などから百歳の祝いを受けた小林ハルさんは、苦難の人生を振り返り 「良い人と歩けば祭り、悪い人と歩けば修業」と語っていた。 以上 (1)「小林ハル」(盲目の旅人)(本間彰子著 株式会社求龍堂発行) (2)平成17年5月18日「神戸新聞」 より抜粋 菜翁が旨さんの読後感 活字にして公開された部分は、人間「小林ハル」のほんの一部分であろう。 そして、それも読むであろう人々やそれらの人々の口から聞くであろう人々へ配慮した文章でしか表現することが許されない中からでも、「小林ハル」が時代背景を考慮したとしても人間らしく扱ってくれなかった人に対しても、「人間らしく接する」ことをひとときも忘れなかった厳しく長い人生の中から「人間らしさとは何か」をあらためてえぐり出されたような思いである。 それにしても、苦難の道を歩んだ人の話を聞いたり、読んだりすることは、教科書的な伝記ものとは一味も二味も違った、人生の大きな糧になるものだと思う。 これこそ、読書の醍醐味である。
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